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2017年9月22日 (金)

消えて(消して)お終いはないで

 当方が歴史街道推進協議会(1991年設立:関西の63自治体、109企業など参加)の幹事会や全体会議の場で、

前会長時代(=当方が事務局長をしていた時期)10年間の平均収入予算が1億8千万円弱。それが今ではついに半分以下に減少した。ご存知ない方が多いかも知れないので申し上げるが、この計画には直接的には30億円、間接的にはその十倍以上の資金が投資されてきている。本年度は中期計画策定年なので、どこに問題や責任があるのかをはっきりさせるべき。でなければ大変な事態になる」

等々の発言をしてきたことを、少し以前に述べました。

 そうしたこともボディーブローになったのか、歴史街道推進協議会の第3代事務局長・足立伸之助氏(御年77歳:近鉄出身)が突如、本日付で辞任することになりました。

 さんざんな悪政を敷き、ここまで計画を無茶苦茶にしておいて、「消えたらお終いはないで」というのが当方の率直な感想です。

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 振り返れば、協議会の理事長がJR西日本の南谷さんから近鉄の山口さん(球団売却時の社長で当時会長・現相談役)に替わったのは、福知山列車事故がきっかけでした。

 当方は協議会の発足前(1986年)、つまり何もないゼロの段階からこの計画に関わり、事務局次長を5年、事務局長を10年やりましたので、できれば「若手」にそのポストを譲りたかったのですが、あにはからんやそこに現れたのは「自称・山口さんの懐刀」という老人でした。

 山口さんはほどなく、その足立氏の強引な調整により会長を兼務することになります。

 しかし、氏の組織運営はまさに出鱈目。まず、周囲のイエスマンたちに出したのが「井戸がやってきたことは全部潰していい」といった趣旨の号令です。

 廃止になった事業は約25種類。

 計画には「広域観光の推進」「歴史文化を活かした地域づくり」「海外広報」という3つの柱があり、それぞれに核となる看板事業がありました。

 例えば「広域観光」の分野では各種の地域連携事業に加え、毎週月ー金に「歴史街道ロマンへの扉」(朝日放送)というTV番組をやっていました。が、足立氏は「”歴史街道ロマンへの扉”は歴史街道計画のコンセプトになじまない」という考え。ほどなく15年、3600回も続いた同番組に幕が閉じられることになってしまいました。

 同様に地域づくり面での看板事業、「歴史街道モデル整備」(国・各自治体とともに近畿50地区62市町村で実施)や、海外広報では関空に乗り入れている全ての都市で実施していた「歴史街道フォーラム」(海外のべ50都市で開催)などの事業が、彼の就任後数年で次々と姿を消すことになりました。

 「毎日数百万人に情報を伝えるメディアを持ち」「近畿の数十の歴史のまちで、槌音を伴う地域づくりが同時並行的に進み」「世界への扉を開けた」状態で事務局長を引き継いだにも関わらず、そうした計画第一段階の成果のほとんどが無に帰したのです。

 今や日本経済期待のインバウンドにつき付言すれば、2007年前までの協議会は明らかにわが国のトップランナーであり、例えば北京事務所(政府観光局より先に開設)では日本紹介のラジオ番組を提供(90回ほど)していたり、韓国とはワールドカップに先駆け両国に働きかけて日韓政府共同の欧州イベントを開催したり、また高野山に招待したルモンドの記者が後にベストセラー作家となり、今に続くフランスでの高野山ブームが起きたりと、今でもなかなかできないような活動を行っていました。

 もしあのままの勢いでインバウンド事業が継続できていれば、今頃どうなっているかなあ・・・と、当時の関係者たちと話すことがあります。

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 もちろん、そうした足立氏の方針に疑問を呈する者もいました。足立氏はそうした人々や、当方を慕う者が心底嫌だったのでしょう。それらしい理由がつけられ、彼らはクビや出向解除になってしまいました。通算で言えば10名ほど。その中には数か月の余命宣告を受けている者もいましたが、足立氏はそんな人を何の容赦もなく解雇しました。

 こうした恐怖人事が横行すれば当然、事務所の雰囲気は寒々としたものになります。が、当方はある意味この協議会にかかわる人脈自体を開拓した生き字引的存在であり、(おかしなことをすれば)関係者からの疑念も生じかねなかったため、そう簡単には切ることができない存在でした。

 しかし代わりに、残された者たちに出されたのが「井戸と口をきくな」令のようなものです。阿呆みたいなイエスマンたちとは別に何も話せなくてもいいのですが、他の中立的なスタッフともほぼ全く口をきかなかった期間がありました。1週間や1か月ではなく、そうした状態は約5年間続きました。極度のストレスから大動脈瘤が破裂、生存率4割の手術を受けることになったのはそうした時期です。

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 さて、ところで足立氏はこのように既存事業や気に食わないスタッフをどんどんカットし、代わりに何をしていたのでしょうか。

 一つには近鉄沿線が多くを占める「メインルート」(伊勢ー飛鳥ー奈良ー京都ー大阪ー神戸)への事業集中です。

 東京でやるシンポジウムのテーマは奈良、ツアーの扱いは全て近畿日本ツーリスト・・・といった具合に、ほぼ全ての事業が近鉄グループやその沿線地区ばかりに集中したような年がありました。

 一見ただの組織変更に見せかけ、事業予算の9割以上を近鉄出向者に集中させ、全てを氏の思い通りに使えるようする。そんなことも常態化しました(酒の場でそのことを当時の近鉄出向者に指摘すると「ばれてましたか?(笑)」という反応が返ってきました)。

 紀伊山地や滋賀・福井・京都府北部・兵庫北西部など「ネットワーク」と称するエリアを計画から除外するための、手を変え品を変えての画策はごく最近まで続きました

 そうしたあまりに非常識な横暴ぶりに抗議をすると、足立氏は次なる手として事務局方針を多数決で決める(体裁をとる)ために「部長会」なるものを組織しました。が・・・当初のメンバーは4名中2名が近鉄出向者、あと1名のメーカー出身者は鉄道などへの出入り部門より、そしてもう1人が当方なんていう、噴飯ものの内実でした。

 そして、そのような場で例えば「財政をメインルートとそれ以外に分割する。企業会員からの資金は本社機能がある都市(=大部分が京阪神=メインルート)に帰属する」などという「(足立氏からの)提案」を採決しようとするのです。

 「多数決に従えないなら辞めろ」「お前こそ出ていけ、このインチキ野郎」・・・局内に罵声が飛び交うことはしょっちゅうでした。

 内部がいくらぎくしゃくしようとも、「そのような(協議会の趣旨に反する)ことは絶対させない」「何が何でもネットワーク(=メインルート以外の地域)を守る」というのが、当方が11年間闘ってきたことの1つです。

 手前味噌ながら、もしそうした行動がなければ、この計画はさらに惨憺たる状況に陥っていたでしょう。

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 一方で、足立氏は(会長他から命じられているにもかかわらず)資金集めを11年間も(!)サボタージュし続けていました。

 当方は事務局長と次長時代などを通算すれば20億円以上の資金を集めてきたことになるはずです。慈善事業のようなものとはいえ、新しい血を常に入れて行かないと当然、組織の血流は止まってしまいます。当方のファンド・レイジング面での最低ノルマは、石にかじりついても年間2千万円の新規開拓を続けていくことでした。

 当然、足立氏にも口すっぱく、「事務局長の最大の役割は資金集め」であることを告げてきましたが・・・氏は「大将は金集めなどしない」などなどと開き直る始末。

 冒頭で協議会の収入予算が11年間で半分以下になったことを書きましたが、資金集めから逃げればそうなるのは当然で・・・人災率100%です。

 計画は結局、 資金減少→事業衰退→信用・期待感の低下→ますますの資金減少→さらなる事業衰退→さらなる・・・という「負のスパイラル」に陥ってしまいました。

 状況は今も変わりません(汗)。

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 しかしその後。

 思わぬ所からそうした足立氏の真意を理解する時が訪れました。

 「協議会を資金不足から計画倒産させ、私鉄主導体制の新組織に鞍替えする」という、いわば「歴史街道推進協議会 乗っ取り」構想の資料が発見されたのです。

 作成者は後の近鉄本社秘書部長。歴代の近鉄出向者の引継ぎ文書の中にあったものですが、あまりに信じがたい協議会への背任的内容でした。

 文化事業のイメージとはあまりにもかけ離れたものなため「ウソつけ」「お前の妄想だろう」と思う方が多数おられるでしょうから、それをここに情報公開させていただきます。

 

 (資料終盤の赤字部分)

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 このことをきっかけに、当方は自身の労働審判を「名目」として、まず協議会首脳陣に事務局内の実態を告発することを決意しました。

 労働裁判といういわばマイナー裁判が名目であるにも関わらず、小沢一郎さんの献金問題弁護団をされた、南裕史さんが弁護人を務めて下さいました。

 ここまでに記してきた事の詳細、またその後の「世界文化遺産」地域連携会議設立などにおける足立氏の妨害行為につき記録した「労働審判の記録」も、取りあえずは協議会関係者(OBOG含む)・友人・また公的目的使用(報道・研究など)に限定し、公表させていただきたいと思います

 ご参考までに「はじめに」と「おわりに」の部分のみ、ここにも掲載させていただきますが、本文50ページ、エビデンスとなる資料類(上記足立悪政ほぼ全てにアリ)を含めると200ページくらい? にもなる、超大作(笑)です。

 希望者は ido@rekishikaido.gr.jp までご連絡下さい。

 自分がその誕生に深く関わり、また長く所属している組織の恥をさらすのは、大変残念なことです。

 また、資料を表沙汰にすることが、今後関係者に多少の波紋を巻き起こす可能性がない訳でもありません。

 が、歴史街道計画はなぜかくも衰退したのか。足立氏という極悪代官の引退によりその理由が闇に葬られてしまうことは、何が何でも避けるべきだと考えました。

 と同時に、後輩たちには今後の協議会をできるだけ「ウミを出し切った状態」から、「もう後がない」という危機感を持って再スタートさせてもらいたい、と願っています。

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 最後に、「消してお終いはないで」ということも、主に近鉄ご関係者に申し上げておきたいと思います。

 足立氏はゾンビのように保身欲が強く、「(そのために一目散に逃げることはあっても)基本的には立場にすがりつく」タイプの人格です。従って当方は、今回の辞任が当人の意思ではない可能性を感じております。

 冒頭でも述べたように、各関係者からの資金は「歴史街道を作ろう」という呼びかけに対して投資されたものです。その額は直接的なもので30億円、間接的なものを含むとその10倍以上に及びます。

 例えば、協議会には約60の自治体が加盟していますが、普通の市町村ですら30年間を累積すれば(税から!)1千5百万円くらいを投資していることになるのです。

 足立氏の行為にどこまで出身社の指示があったのかは分かりません。ただし、足立氏が山口さんの了解など含め「ただの個人として活動していた訳ではない」ことは事実です。

 先に記した「負のスパイラル」の解消は、恐らく一筋縄では行きません。

 今後、計画が水泡に帰したり、どう考えてももう「歴史街道はつくれない」ということになってしまった場合、彼を任命した人や組織への賠償責任を問うことはできないのか? 

 そんな議論が出てきても全く不思議ではないと、私は思っています。

 足立氏が引退しても「消えておしまい」「消しておしまい」ということは絶対にあり得ません。

 本日を契機に、まずはそうしたご認識をお持ちいただくことを希望します。

 なお、現在協議会に出向中の皆さんについてはこの間、近鉄出身者に限らず、足立氏におもねることのない中立性を保ちながら、忠実に協議会のミッションに沿った仕事をされていることを念のためつけ加えさせいただきます。

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 (ご参考)

 1 歴史街道推進協議会

   http://www.rekishikaido.gr.jp/

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 2 協議会設立→当方事務局長在任中(1986年から2007年頃)の動き

 (松下幸之助叢書:29-47P) 

  https://konosuke-matsushita.com/treatises/pdf/ronso-6.pdf

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 3 歴史街道推進協議会 労働審判(2013-14)の記録(前書き)

 はじめに

 平成25年秋から26年の春にかけ、歴史街道推進協議会において1件の労働審判が起こされ、解決金ふくむ約200万円が同協議会の平成25年度予算から支払われました。しかしこの件につき、総会や幹事会等の場ではほとんど何の説明もおこなわれないままでした。「事務局はなぜ情報公開しないのか?」 - 当冊子は幹事会メンバーからの声を受け、2年の猶予期間の後に作成されたものです。

 この労働審判申し立ては、前・事務局長によるものでした。長年の沈黙を破り事に及んだのは、協議会の再生には事務局の正常化が必要であり、そのためにはその内情をこれ以上密室内にとどめず、会長はじめ主要な関係者に「情報公開」することが不可欠、と考えられたからです。

 さて、昨今の歴史街道推進協議会の活動成果はかつての1-2割程度に低迷しており、各種会合でも協議会や事務局の活動に対し厳しい意見が出ています。その背景にある知られざる問題は、協議会の設立趣意や大多数の関係者が望む活動と、現・事務局長が志向する方向が大きく乖離している点です。労働審判では「計画倒産へのシナリオ」など、この種の組織としてはおよそ信じ難い数々の資料が公開されました。

 協議会活動をオープン・公正に運営すべき立場の事務局が今も大きな問題を抱えていることは、業績不振はもとより、裁判後も(解決金の半額返納要求、出張許可を出さない等)申立人への様々な嫌がらせや、現状に疑問を呈する人材の出向解除(通算10名近くに上ります)が平然と継続されている点からも明らかです。

 こうした事務局の実態を単なる組織内の不協和音、あるいは特定人物らによる「老害」エピソードとして闇に葬ることは、絶対にあってはなりません。なぜなら、歴史街道計画には歴代関係者の夥しい努力と約30億円、関連事業を含めればその10倍以上の資金・公金が投入されてきているからです。

 この労働審判を通し、申立人個人の問題はすでに一旦解決しました。ここからは是非皆様に、そこで公表されたこの間の経緯や協議会の現状が、30年近くに及ぶ多くの計画関係者の莫大なエネルギーと税含む金銭的拠出に対し、果たして正常と言えるものかどうかを厳しい目でチェック願いたいと思います。

今回の「情報公開」がさまざまな議論の契機になれば幸いです。

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 4 裁判終了後のできごと(同・あとがき)

おわりに

体制変更から10年。「歴史街道」推進協議会事務局は裁判後もさしたる反省はなく、依然大きな問題を抱えたままで運営されています。

 

平成26年夏には事務局改革を志していた総務部長が「会長からの指示があった」として交替。また翌年春には「研修」中心の予算編成に異を呈した(前総務部長含む)2名の部長が帰任させられました(「山口氏をコントロールできるのは自分だけ」というのがA氏の口癖です)

ひたすら繰り返される保身のための排除工作。その被害者は申立人含めすでに10人近くに及んでおり、組織としての成果向上は大変望みづらい雰囲気です。 

 28年春にはさらに女性出向者への「地位利用型セクハラ」を疑われる出向解除事件が発生しました。疑惑の内容は75歳を超えたA氏が彼女をその住まい近くの居酒屋に誘い出し、体を触るなどの行為に及んだ後「家まで送る」と迫った(A氏は否認)、またそれを拒絶したことにより彼女が人事上の不利益を被ったのではないかというもので、真相究明のための懲戒委員会設置が求められました。が、事務局ではあろうことかその直後に「懲戒委員会の対象となるのはプロパー社員のみ」(事務局長は対象外)とする規則改訂がおこなわれたりもしています。

一方で、申立人への妨害や嫌がらせも(やや下火になったとは言え)続いています。

申立人はその後も協議会のネットワーク事業部長として、「南北3つに分けた関西連携」を打ち上げ、南部では世界遺産でもある「紀伊山地の霊場と参詣道」、北部では平成27年夏に全通した(近江・若狭・丹後・但馬・丹波と京阪間を結ぶ)環状高速道路に沿った地域・関係者連携や情報発信に取り組むなど、着々と成果を上げています。また、国の「広域観光ルート」への関心(28年予算は計63億)を「歴史街道」計画再生のラストチャンスと捉え、施策策定の段階から、2年にわたり観光庁長官や担当部局への提案・協議を重ねてきました。

が、27年6月には突如、事務局内で「広域観光ルートへの立候補そのものを辞退」という、協議会としてのレゾンデートル(存在理由)放棄に等しい決定がなされています。

 

他方では「広域観光ルート」以外にも「世界遺産」「日本遺産」「DMO」など申立人がこの間種をまいてきた様々な事案(P34―36)が、次々と新たな「国策」になりつつあります。

「世界遺産」関係では地域連携会議設立を契機に文化庁によるソフト予算創設(26年より2億)、「世界遺産特別法」制定を目指した超党派国会議員連盟設立(27年)等が進みました。 

関西や「歴史街道」関係地への直接貢献面でも申立人は京都と紀伊山地での「世界遺産サミット」(26・27年)、京都での「アクアリウムin二条城」(26年より)などを実現しました。前者は全国的テーマを関西がリードする点で、また後者(入場者計は44万人で収入の1割=5千万円を二条城修復等に寄付)は遺産の積極的保全活用面で、過去にないモデルです、推進機構常務理事を務める「DMO」関連では28年に地方創成の一環で丹後・丹波に4億、琵琶湖の自転車観光に3億弱、高野周辺に2億、伊賀甲賀他に1億が計上されています。

 

しかし、A氏はこうした活動に頑なに出張許可を出しません(でした)。

政府・各省との折衝、世界遺産関連の地方出張、畿内でも地方創成責任者である総務省審議官とのシンポジウム出演(26年末・京大)など、この間の成果につながる活動の少なからずは、申立人が自らの休暇や経費を持ち出すことにより、辛うじて推進されてきたものです。 

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